第七回 先を見るか前を見るか

  第7回のお話は「1日千円もらえるか、1週間後に1万円もらえるか」という話です。正確には今が月曜だとして月曜日から日曜日まで1日1000円、合計7000円もらえる、もしくは日曜日に10000円もらえるかどちらを選びますかということですね。そんな単純な話じゃないだろと思いますけど、ただ一週間後(正確には6日後)に10000円をもらうために我慢できるのかどうか、つまり未来に投資できるかというものを数値で表せるかな〜、、、ということを考えてみます。ここではベルマン方程式を考えて普通に計算していきます。

 

  ベルマン方程式は強化学習などの分野で使われているのもので、今回はこれの考え方を拝借して上の話をモデル化してみる。まず手に入るお金をrとしておく。そして未来(1日後)に得られるお金の割引率をγ(γは0~1)とする。これは未来に得られる報酬の価値の見た目が小さくなることを表していて、この数値が小さいと我慢できない(逆にいうとこの数値が大きいと我慢できる)ということである。すると1日後の価値R1(今から見たお金の見た目)はR1=γrとなる。二日後では価値R2はR2=γR1=γ^2r、三日後はR3=γ^3r、、、となる。式にするとΣRn=Σγ^nrとなる。

  例えばγ=0.5としたとき、1日1000円の場合

  月曜    1000円

  火曜      500円(1000×0.5)

  水曜      250円(1000×0.5×0.5)  

  木曜       125円(1000×0.5×0.5×0.5)

  金曜     62.5円(1000×0.5×0.5×0.5×0.5)

  土曜    31.25円(1000×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5)  

  日曜  15.625円(1000×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5) 

  合計 1984円(小数点は切り捨てた)

  

  一方、日曜日に10000円もらえるとしたら

  月曜           0円

  火曜           0円(0×0.5)

  水曜           0円(0×0.5×0.5)  

  木曜           0円(0×0.5×0.5×0.5)

  金曜           0円(0×0.5×0.5×0.5×0.5)

  土曜           0円(0×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5)  

  日曜       156円(10000×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5) 

  合計     156円(小数点は切り捨てた)

 

  γ=0.5の場合は「1日 1000円」の方が価値があるということ、それを選ぶということと捉えられる。

  次に考えたいのはγがいくつ以上なら「一週間後に10000円」を選ぶことになるのかということだ。

  1000Σγ^n(n:0~6)=10000γ^6

  この式を解ければいいのだが大変そうなので両辺をγの関数としてグラフにしてみると

f:id:MArchen:20200612164022p:plain

このようになる。雑だが横軸ガンマ、縦軸が価値、青が左辺「1日1000円」、オレンジが右辺「1週間後に1万円」である。だいたい0.9(90%)あたりでオレンジのグラフが青のを抜かすのがわかる。「1週間後に1万円」を選ぶということは割引率γが90%以上ということである。

 

  雑なグラフに考察ですみません。あとまだ第六回が公開できてないのもすみません。今回はただ「1日1000円」、「1週間後に1万円」の話はベルマン方程式で考えてみることができるのではないかと思い立ったためだけに書いた話です。そのため深い話はないのでいつかモンテカルロ法なんかの話を書ければいいかなって話をして、このへんでお暇します。

第五回 読書をさせたいとか 読書が学力に繋がるかとか(ゲームの話も)

 子どもに読書をさせたいという話(前置きが長いので適度に読み飛ばしていただきたい) 

  読書は確かにいいことではあると思うが、悪い面もある。本を読むことに夢中になって勉強できない(ただ読書をやめることが必ずしも勉強にはつながらない)とか。確かゲームを止めさせたからといって勉強するようになるか、そんなことはないとか誰かが言ってた気がする。あとゲーム(Switch、PS4等、このブログを見返したときにこんなゲームあったなとおもいあせたらいいななんて思う)はいいものだと思う。例えば、視力低下につながるとか、寝不足の原因だとか、勉強しなくなるとか、このような悪い面の話をよく聞くし、確かにそのようなところはよろしくないと思う。だだゲームというのは考えなければならない、頭を使わなければならない。試行錯誤(try & error)、インターネット等での情報収集、作業の効率化など、細かく言えばきりがないと思うのだが、多くのスキルを必要とする。ポッケに入るモンスター、戦って負けて編成が悪いのか、技が悪いのか、ステータスの振り方が違うのか、読み間違えか、勝てるようになるために考えることは色々ある。編成を変えてみたり、個体値なんかを調べて最大のステータス計算してみたり。あとはドラゴンのクエストでレベル上げ、メタルなスライムを倒すといいとか。自由度の高いモンスターを狩るやつとか、スマッシュな兄弟と乱闘するやつとかは立ち回りを考えたりしなくてはいけない。イカが色を塗るゲームなんて、陣取り合戦して、絵具の銃で敵を倒して、しかもチーム戦で、頭を使わないわけがない。無人島で動物と遊ぶやつなんかは何をするかを自分で見つけなければいけないらしい。(勝ち負けなんてないのがちょっと音楽ぽくって惹かれてしまったり)こんなに考えながら勝利や成功、目指すものの達成を求めるのだから素晴らしいものだと思う。とんでもなく読書の話から外れてしまったが、、、戻ろう。状況を頭に思い浮かべたり、人間関係がどうなってるのか整理したり、そんなこんなをしながらまた全体的なストーリーを理解していく、そしてそれらを笑ったり、それらが面白いと思ったり、それらに感動させられたり、読書とはこういうものではなかろうか。具体的にと言えるのか怪しいが、あるページの登場人物たちのくだらない会話も最初から最後まで読んで理解した全体の話も、つまり1ページ単位のスケールから何百ページ単位のそれまで楽しむということだ。(もちろん本の中の世界に浸ったり、想像を超える話を書く作者をすごいと思ったり、他にも色々楽しみはあるが)相変わらず前置きが長い、、、結局なんだというと読書は頭を使って楽しむものであり、ゲームと同じようなものであると言いたい。

  読書はゲームと同じとか言ったが漫画なんてさらに近い具合に変わらないだろう。とここで漫画の話を出すともう収まらなくなるからやめよう。まず一つ目に読書を楽しめないなら、それは勉強(国語とかその他諸々)に対して望ましい結果はついてこないのではないかと思う。読書を楽しめるというのは、内容を理解しながら本を読めているということ(上の方で長々と書いてしまったのでこの辺で)である。この理解し、また同じように考えながら読むことが、例えば国語とかでいう読解力の向上につながるのだと思う。単に言うと読解力とは書かれている文章の中身(ストーリー)がわかるということで、結局そのようなことを本で練習できているかということである。内容を理解せずにただ文字を追うような読書は、わからない外国語(その外国語を習得しようとしているわけではない)の文章の文字をただ眺めているのとそう違いはない。読解の練習をせずに時間を潰しているだけ。(喩え話が拙いのでその辺を努力したい)読解せずに読むことが読解力向上につながるものか、楽しめない読書はやめるべきだ。(ストーリはわかるけどつまらない、、、 そんな本も読むのはやめてしまっていいだろう。)(かっこが続くが、国語においてはつまらなかろうが読んで問題を解いていけばいい。どこをどう読めば正解を得られるのか考えていくからだ。)

  そして二つ目に思うことは読書をさせたいと思うなら、自分がまず読むべきということだ。これは先ほどの一つ目の考え方から続くもので、こどもに読書を無理やりさせたところで何も考えずにただ文字を追うだけ、絶対に楽しんで読むことはないだろう。そしてこれでは意味がない。だれかが熱心にあるものと向き合っていたり、そのあるものに惹かれているところを見ると、人は面白いのかななどと興味を持つものだ。そして何が楽しいか気になるものである。読書も同じだろう。自分が読んでいれば、自ずとそれを見ているこどもは興味を持ち始める。そしたら本(その子が楽しめると思うもの)を紹介し、子どもが読み始める。そんな具合にいけば願った通りに行くだろう。子どもが興味を持ち始めるまでに時間はかかるかもしれないし、一回手を出しただけでは続くとも限らない。ただ少なくとも子どもが自然と読書するようになるまで続けられるといいだろう。(子どもに読ませるためだけの読書は良いものだとは思わないが)「好きは物の上手なれ」なんてことばがある。ならばいかに好きなものにさせるか、楽しい物だと紹介できる(子供の前で読書に浸る)かを考えるべきだと思う。

  まとめると、読書は頭で考えながら読むことに価値がある。楽しい読書が読解力を鍛える。読書をさせたかったら自分が読むこと。

  

 

 

  このブログではただの独り言のようなことを書いているのだが、ここはさらなる独り言の場であるだろう、、、。勉強せずにゲームする子がいる。こんな単純な話ではない気もするが、ゲームを作る人のほうが勉強を教える人より熱意がある、ただそれだけだろうと思う。いかに魅了し、惹き寄せられるか。日本において学校は基本的に生徒が集まるし云々、、、そんな話は避けよう。(どこかで書きたい)(ゲームを作る人はハードを設計する方からソフトを開発する方まで、勉強を教える人は教科書を書く方から教壇に立つ人までと広く捉えておきたい)

 

 

  ゴシップっていいですよね。最近友人と話してて自分の恋愛は頭をひたすら悩ませて辛いが他人の恋話はとても面白いと言っていて、それを聞いたときゴシップと同じなのでは?!?!と思いました。当人(恋愛に悩む友人からみた自分ですね)にとっては深刻だけれども、それを外で聞く側(友人の言う他人)は面白おかしいだけなんですね。

Fri.2000/6/3

 

第四回 図を書くこと

 第4回は、、、

         

 百聞は一見に如かずという言葉があるように図は言葉では伝わらない物を一瞬で伝える。例えば物の形を伝える時はそのものの絵や写真を見せた方が口で伝えるより早いということだ。しかも正確である。何かを作るときの設計図。空間図形の切断面の図。店の位置を書いた地図。手作りラジオの回路図。図はあらゆるところに登場する。歴史の年表やプログラムで役立つフローチャートもそうだ。

 この図だが自分の考えやある場の状況などを整理するときに大いに役立っているのではないかと思う。(自分の考えを整理する方法は言葉を口に出したり、箇条書きで書き出したり他にも数多あるであろうが、、、)個人的なことだが、メモをとるとどんな内容であれあっちこっちに図がある気がする。ある日のスケジュールメモに時計の絵がかいてあったことには驚いた。無意識で書いていたのだろう。ただこれのおかげでこの日もうまく進んでいたのかなと思ったりする。

 そして相変わらずプロローグとも言えないようなくだらない前置きをずらずら書いていることを反省したいが、問題がとけないなどと悩んでいるならまず「絵(図、表なども含めて)を書きましょう」ということだ。200gの水に4gの食塩を混ぜて食塩水を作るならビーカーの絵をかく。自宅から1200m先の駅に行くなら家と駅を書き、そして線で結ぶ。日本からサンフランシスコへ飛行機で行くと現地時間の何時に着くか、、、、そんなのさっさと世界地図(メルカトル図法とかの見慣れたものでもなんでも)かく。こんな絵をかいたら次はビーカーの絵に水200g 塩4gと、自宅と駅の間に1200mと、日本に東経135°、サンフランシスコ、、時差が、、と書き込んでいく。

 中学生向けかと思う例え話になってしまったが、このような絵(図、表)を書くか否かで(テストの点数や解いてる問題の正答率などが)大きく変わるだろう。実際、絵の中には計算や単語、文章は少なく、問題を解くためにはただの遠回りのように見えるかもしれない。ただ、片方の皿に絵の乗った天秤があったとしよう。その遠回りをその絵の乗っている方と反対側の皿に乗せても、天秤は揺るがないと思う。

 さてさて結局絵を描きましょうということだ。

 

 そういえば小さい子が書く人の絵は頭足人になるという話があったなような。頭足人、目や口、鼻特徴の多い顔や動かすことが多い手足を大きく描いた絵だ。これは絵というか図を書くことを考えるとこのようなイメージというか感性というかを持つことは重要なのではないかと思う。数学で使うxy座標を持つグラフにおいて、x軸のメモリとy軸のそれを同じスケールで描くことは少ないし、交点が多い部分などを拡大して描きたい。歴史を考えると極端にいうと縄文時代や江戸時代の中頃なんかは変化が小さいから教科書とかではとくに詳しく書かれることは少ない(歴史的な資料が少ないということも考えらるが)が大化の改新鎌倉幕府が倒れていくところ、明治維新が活躍し始めるところはストーリーが細かく書かれている。重要な部分は細かく大きく描き、そうではないところは省略しつつ描くという考え方が図を描く際に必要だと思う。図の書き方についてもいつか書いてみよう。

 

 

 「自分の考えを整理する」などと書きましたが「思考の整理学」という本があったのを思い出しました。(上の文を書いてるときには気づかなかったが、もしかしたら「自分の考えを整理する」というのはその本に影響されて出た言葉かもしれない)次回は読書について書いてみることにします。

 あとこれはただの独り言ですが、、、、「(内容、文体はもちろんだけど)口調が統一されてないとか細かいところまだまだ拙いな〜、鍛錬しなければ、、、」「あーでも口調は揃えたいけど語尾の引き出しは増やしてつかわないと、、、」

2000/5/25

第三回 なにかを始めるとき:英語の勉強とか、、、

 英語の勉強は始め方が難しいですね。中学生から今の時代は小学生から英語の授業が始まるのかな。どんなことでも一歩目は難しい。

 ここでの話は「これからの英語が〜」という話ではないです。初めて英語の教科書を開き「何だこれは?」となってから英語のテストで点数を取るための話です。

 

 

 まずは触れてみること。ただ教科書に書いてある単語を検索して発音を聞き(google先生なら発音ぐらい文句なしで教えてくれる)真似して声を出してみること。単語ひとつずつ検索したら2、3単語繋げて読んでみる。2、3単語はどこでもいい、文の先頭(英語は大文字(a capital letter)から文章始まります)でも終わりでも(文の終わりは.(ピリオド)もしくは?(クエスチョンマーク)です)途中でもいい。文の先頭も終わりも分からなければ本当にどこでもいい。どこでもいいとは自由度がありすぎて難しいかもしれない、その場合は「始めの単語から順番に」でいいだろう。単語の塊がつかめるならそこをつなげて読むといい。単語を繋げて読めたら文(大文字で始まり、ピリオドまで)ごとに繋げて読んでみる。そしたら教科書1ページ分繋げて読んでみる。

 次は書くこと。教科書に書いてあることを真似してそのまま(大文字、小文字、単語のスペース、ピリオド、クエスチョンマーク全て)書き写す。それだけだ。

 ここまできたらあとは単語を置き換えてみる。

    I am a teacher. 

                                 I am a student. (a teacher→ a student)

                                 I am a firefighter.(a teather→ a firefighter)

              He plays basketball.

                                 She plays basketball.(He→She)

                                 He lives in Paris.  (lives in Paris→sings a song)

 こんな感じで、このようなものはよく文法の問題集とかにあるだろう。数学の代入(中学とかだと「x=4をy=5xに代入せよ」とかがみられる)に似ているようなという考え方もできるかもしれない(またいつか機会があれば)。このあたりまでくればあとは文法の教科書等を読み進みはじめればいいだろう。

                              

 

 ある程度英語を勉強していればこんなこと?となるでしょう。ただ何でも始めは手の出し方がなかなか難しい。この「まずは触れてみること」という考え方はスポーツにもらった。サッカー少年が最初に触るのはボールであってルールブックや足技の解説書ではない。スポーツでなくとも、文学少女は単語や漢字や文章の読み方を習ってから読書するのではない。サッカー少年はボールを蹴ってゴールを目指しながらルールを覚え、点を取りに行くためにスキルを求める。文学少女は読みながら単語を覚え(単語は推測しながら読むものであったりする、これについても書きたい)、漢字についての知識を増やし、文の読み方のセンスを磨いていく。そして高校や大学の入試にもこの考え方は必要で、学校の勉強にもこの考え方を取り入れてみたいな〜と思いました。高校生の物理なんかも強くこの考え方を必要としていると思う。まず問題を見てどうなるかを考えてから、教科書の説明を読み答えを出そうとすることとか。

 この考え方はスポーツにもらったわけだけど、実はjazzでコンボをやり始めた(ナンジャコリャとなっていた)ときに気づきました。どういうことかというと、コンボをやっているときにスポーツと同じなのかなと思ったんですね。頑張って楽譜にへばりつこうとしていたら、「楽譜なんかいいよ、とりあえず音をだせ」と言われたんです。この言葉で、、、と、この話はまたどこかで。

 

 

 

第二回 ジブリの映画

 先日「魔女の宅急便」を見た。オープニングの「ルージュの伝言」のこれから始まる!!というワクワク感がたまらない。これから始まるとは何が始まるんだ?ということだが、ジブリのもつ独特なファンタジーの世界観である。子供の頃に見ているし他のジブリ作品もすでに見ていて、これがジブリだというイメージをすでに持っているという個人的な前提があるのだが、多くの方に伝わると信じてる。まっくろくろすけとはなんだというジブリに馴染みのない方やまだジブリのイメージがないお子様にはただただワクワク感を楽しんでもらえればいいと思う。(当時の何もわからない幼い自分が見たときのように)

 

   ネタバレが含まれるので以下ご注意ください。

 

 

 

 途中ジジが言葉を話せなくなり(キキは魔法が使えなくなっているから、ジジの言葉がわからなくなったと捉えるべきかもしれない?)結局最後まで話せないまま終わるのだが、ジジに彼女?ができてキキから遠ざかっていく感じと重なってとてもさびしい。ジジが離れていくところは同級生や学生の頃の友人たちが結婚しお互いに会える時間が減っていったり、子どもが結婚したりなどして家を出ていったりという感じに似ているのではないかと思う。人(猫含め)がそれぞれの道に進んでいくとき、それなりに別れつつあるな、離れていってるなという感情も切り離せないものである気がする。(切り離せないと言えば影、人にも猫にも何にでもついてくるもの、第一回でH・C・アンデルセン「影帽子」を紹介したのでこの話もいつか書こうと思う。)変わらないものはないという諸行無常も一考したい。

 最後だんだん魔法をとりかえしていくところを考えるともしかしたら映画の終わった後にはなせるようになっているのかなとも思ったりしなくない。この映画の終わりはキキのあの海の見える街での生活の始まりという、、、ここで何を感じ取ればいいのかはまた歳を重ねたらわかるであろうか。

 

 

 ジブリいいですね。歳を重ねるごとに深く深くわかるようになる。(時代に少し遅れるのが悲しいですが)たまには自転車を走らせて、鎌倉駅近くにある小町通り沿いのどんぐり共和国(ジブリのお店)に行ってみたいと思う。今度「海の見える街」「ルージュの伝言」あとは「晴れた日に」とか練習しよう(ピアノかベースかギターか悩ましい)。

 

第一回 おとぎ話

物心つくほど歳をとってからお伽話、童話を読むとたくさんのことに気づかされる。ここでのたくさんのこととは、子どものときに読んでも気づけなかったことである。例えば、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(H・C・アンデルセン)の書いた「もみの木」や「影法師」、グリム童話の「ブレーメンの音楽隊」「ラプンツェル」「ヨリンデとヨリンゲル」、他にも山ほどあるがこれらの話はとても生き方について多くのことを気づかせ考えさせられる。